05155-180607 「民法2」の授業参観にいらした方にshioの授業の方法と考え方を語りました
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木曜日の1・2限、2コマ連続開講の「民法2」に社会人の方がお二人、授業参観に見えました。
普段、千人以上のトップアスリートに教えていらっしゃる先生が、shio.iconの授業方法から学びたいとおっしゃってのご来訪。光栄です。もうお一方はIT関係者。
2コマ3時間の授業終了後、正規の聴講生として聴講している方や学生たちとともに、お二人とランチへ。いつものインド料理店「ムンタージ」。 その先生、shio.iconの授業中にお書きになった大量のノートを携え、「大変勉強になりました。お聞きしたいことが山ほどあって、何から伺ったらいいか……」「なんなりとどうぞ。」
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以下、同席した学生がMacでScrapboxに書いたメモから転載します。食べながらだったのでメモは完璧ではありませんがご容赦ください。
/shio/himan.icon 学生に対して、複数の「五感」を使わせている印象を受けました。
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まさにおっしゃるとおり。僕は以前から「授業は体育」と申しております。身体の各部位を主体的自律的に動かし続けるのがアクティブラーニング。法律学も「実技科目」なのです。 /shio/himan.icon 教室内をあちこち動き回っていますよね
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学生たちの見る向きが変わる。僕の声が聞こえる方角も変化する。人間、同じ刺激を受け続けていたら鈍感になる。だから僕が積極的に動く。小中高校の教員は日常的に「机間指導(机間巡視)」をします。それと同じ。
僕の板書はiPadとApple Pencilなので、教室内、どこにいても板書できる。
教室内、前半分と後ろ半分は空気が異なる。
スライドを事前に作成することは一切ない。使わない。もちろん学問分野によっては、グラフとか病変の写真を見せるといった用途なら、資料を提示することは必要です。でももしその資料がweb上にある場合は、あらかじめ教員が用意してしまうのではなく、教室でググってみせる。そうすると学生たちはその手順を観察して、情報源に行き着く手段まで会得できます。用意しておいてパッと出すことは簡単。でもshio.iconはそれをしない。例えば著作権法の授業でYouTubeの動画を再生するときにも、その場でググって、その場で出します。
授業の準備としてあらかじめ用意しているのは、前の週に学生たちが手書きして提出したオピニオンペーパーのスキャン画像から質問部分を切り出してScrapboxに貼り付けるだけ。 /shio/himan.icon 前回の授業のレビュー、一コマほぼほぼかけていましたね。あそこまで、ダイナミックに!!
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先週の授業をご覧になっていないので、お分かりにならなかったと思いますが、実は前回のレビューをしている中に、プラスアルファがたくさんあるんです。ちょっとずつ情報を付加している。前進しているんです。付随する情報を提供したり、前回とは違った観点から立体化します。そして今日の授業内容に繋がる。最初、慣れていない学生は「早く今日の授業に入ってください。」って意見を言ったりするのですが、そのうちわかってきます。レビューの中に初めて聞く内容が多分に含まれていることを。
/shio/himan.icon 学生さんの微妙な言葉のチョイス、聞き逃しませんね。
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「法律語」という外国語の授業ですから、学生たちが言葉を厳密に使えるようになる訓練の場です。あの学生は「契約の成立」という言葉を使っていませんでした。「契約の締結」と勘違いしていた。
ノートに、僕の板書の通り書けていないことが見えていました。僕は学生たちのノートが見えているので、彼女は板書の通りかけていなかった。思い込みで書いているんですね。でも彼女も4月のころは、板書と全然違う図を書いていたんです。それがちゃんと板書通りに書けるようになってきた。ずいぶん成長したのです。
図は僕が書いた通りに書いてごらんと伝えているんです。意味があって図を書いているのですが、その意味が最初はわからないからほとんどの人が適当に書いてしまう。
/shio/himan.icon 質問に答えるとき、明確にがつっと言っていました
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彼女の性格的に単刀直入に言っても大丈夫な学生。特に前にいる学生に関しては授業中によく対話しているからキャラクタがわかっているし、手元でやっている作業やノートの書き方も見えている。ゼミではなくても、僕の質問に対するレスポンスの経緯から、言っても大丈夫とわかっている学生にはしっかり伝えた方がいい。
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/shio/himan.icon 授業中、話がどんどん脇道に逸れてもちゃんと元に戻るのがすごいなと
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話は必要に応じて一つ一つ、脇道に逸れる。さらに逸れる。そして、戻り、さらに戻る。前提となる情報を知る必要が生じたら、ちゃんとそれを先に話すんです。学生と対話していて、理解に必要な事柄をまだ知らないとわかったら、それを先に教える。
授業中、僕は3人いるんです。喋っている僕、何をどの順番で話そうかとその先の展開を構成している僕、そして教室の後方斜め上から自分と教室全体を客観的に観察している僕。授業は3人の僕の共同作業で成り立っています。
/shio/himan.icon どうやってあのような授業の手法を身につけたのですか?
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場数のなせる技です。大学院生の頃、たくさんの大学の公務員試験講座で民法の講師をしていました。民法をいろんな長さで教えるんです。60時間、30時間、18時間、9時間などある色々ある中、最も短いと「民法を1時間で教えてください」というものまでありました。これは鍛えられました。正規の大学教員としては1998年に横浜国立大学人間科学部で非常勤講師をして以来20年。複数の大学で合計週14コマ担当していた時期もあるくらいですので、他の人の何倍か授業の経験をしています。最初から現在まで、すべて一貫して原稿なしのアドリブで。
さらにその10年前、大学生の時から現在まで、YMCAのキャンプでボランティアリーダーとして小学生、中高生、大学生にヨット、アーチェリー、スキーなどを繰り返し繰り返し教えています。教え方の基礎はYMCAでの試行錯誤で培われました。相手も多様、教える内容も多様。
仕組みを伝えることが大切。構造が把握できて、それが動くという部分です。構造と動く仕組み。動きをどう伝えるか。それが教え方の鍵だと思います。
マクロとミクロを常に行き来します。抽象的視点と具体的部分。
「部分」を合成すると、「全部」にはなるけれど、「全体」にはなりません。
/shio/himan.icon 全体にはならないというのは、どういう?
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自転車のパーツ。「部分」です。そのすべてのパーツを「全部」並べて。ネジ、ベアリング、スポーク、etc. たとえパーツを何百個か「全部」を並べても自転車(全体)にはなりません。
「全体」が自転車として機能するには、有機的に「組み立てる」ことが必要です。その時に「仕組み」を描き、「動き」を伝える。その「動く」の伝え方が大切です。自転車は「動く」から自転車なのです。
/shio/himan.icon 動きは、さっき、学生さんたちがノートに物権が動いていく図を書いていましたね。
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昔は動く部分を表すのに「黒板消し」を使っていたのですけど、2012年にiPadで授業の板書をするようになってから、動きを画面上で表現できるようになりました。その動きをちゃんと見てもらいたくて、それをノートに描いてもらいたい。「shio図」も時間を追って動いていく。時系列で増えていく。
学生たちが繰り返し描くことによって、描けるようになっていく。だから丁寧にやっています。書く、描くという練習のチャンスを授業の中でいかにして提供するか。
授業前に作っておいたスライドを授業で提示すると、最初から完成図が目の前に現れるから、学生たちはそれを自分で描くスキルは身につかない。完成図を写真に撮って「記録」する程度。しかし将来自分で考える道具として、自分で描く、書くスキルを身につけてほしい。そのためには、授業中に何度も描く、書く時間をとる。実践する。実技です。授業は体育なんです。
法律を教えていると言うと、ほとんどの人から「知識を教えている」と思われます。でも違う。「スキルを伝授している」んです。でもそれを人に説明するのはとても難しい。なかなかわかっていただけない。
/shio/himan.icon 授業中に先生が問われた中で、「債権」という言葉がなかなか学生から出ませんでしたね。それでも先生はずっと待っていた。あの沈黙。私だと出てこない状態を我慢できない。
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タネを蒔く。苗を植える。水をやっても肥料をやっても、どんなに手をかけても、そのタネが自分で芽を出して育つのを待つしかないんです。出てこないからといって水をやりすぎたら腐ってしまいます。じっと待つ。
授業は体育です。学生たちが自分で実技、実践を繰り返し、試行錯誤し、相互作用を与えあいながら成長する姿を見守るんです。
3ポイントシュートを打てるようになるためにやり方を伝える。でもその後、学生たち自身が何十回、何百回と繰り返していくうちに会得していくのです。それが「learning」。 多くの「講義」は情報を伝えるだけ。教育ではない。学生たちが自身で訓練する時間を取らない。たったの1回もやらない。それでは学生は育たない。
問いを投げかけて、沈黙の間、何も怖くない。学生たちは考えているのですから。考えている学生の方は、長いとは全く感じていない。頭をフル回転させているから。その沈黙を教員が遮って何か言ってしまうのは教える側の問題。時間内に終わらせようなどと考えるからそうなる。
それは100点満点の発想。今日はここまで終わらせる、などという100点満点から逆算して発想するから、早く前に進もうとする。せっかく学生たちが考えているのに教員がその時間を奪ってしまう。
僕はそうではない。今日の授業でどこまでいくかは、全くわからない。授業前、何も予定していない。だからいくらでも脱線して違う話ができるし、学生たちがうんうん考えていたら、とことん付き合う。ヒントを出したり、発言に対して肯定的だけどずれているというメッセージを返しながら、待つ。時間制限はないから。
今日は学生たちが一つめの「教科書」を書いている段階で、「あと15分か。どうしようかな〜」と思っていました。先に進まなければ15分間、考える時間がある。学生たちが考えている時間は、教員の側も考える時間。 結局、授業を展開する方を選択して、一瞬で次に考えることになるステップを提示して、また書く時間にしました。
なんども間違う勇気が大切。最初から一発で美しい補助線をかけるわけがない。繰り返す回数でセンスが養われる。 何事もことごとく練習です。センスではありません。練習です。回数です。場数です。
たとえば写真は練習です。まずは1万枚撮りましょうと言っています。
場数をどれくらい踏みましたか?ということ。補助線を引くセンスを磨きたかったら何本も何本も補助線を引いてみればいい。センスだと言われているものは、眉唾。
センスとは習得できるスキル。繰り返しを継続することによってスキルがだんだん洗練され、その結果がセンス。
洗練された境地まで到達した人が、一発で引ける。そこだけ見れば「すごい」、「センスいい」と感じるけれども、その人はそこに至るまでに一体何百回書いたか。
トレイニングの繰り返しの蓄積があって、その結果が現れるのがセンス。
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